相撲の起源は古代日本の神事にさかのぼる。
『古事記』『日本書紀』の記述

『古事記』や『日本書紀』には、建御雷神と建御名方神の力比べが記されており、これが相撲の原型とされている。 毎年の豊作を祈願し、神々に捧げる神聖な儀式として始まりました。
日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の定葦原中国平の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後、タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。

野見宿禰と當麻蹶速が天皇の前で力比べ
「日本書紀」に記載されている紀元前23年(垂仁天皇7年)に、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が天皇の前で力比べをしたことが起源。これは、野見宿禰が相手を絶命するまで執拗に攻撃を加えていることから、相撲というよりは死闘をもって力比べをしたようですが、この2人が相撲の始祖とされている。
奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとったとされている。
最初の記録は天平6年(734年)のものであるが、節会を統括する相撲司の初見は養老3年(719年)であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。
一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている。
武士の鍛錬としての相撲
相撲には神事としての歴史と、肉体の鍛錬のための歴史があります。
肉体の鍛錬のための相撲は、792年(延暦11年)の健児(こんでい)の制から始まって、徴兵制を推し進めるため、相撲が選抜競技とされました。
武技として相撲を積極的に取り入れたのは、武士中心の社会へと変わった保元・平治の乱(1156・1159年)からになり、武士の実戦技術として相撲が根付いていきます。
武家として相撲を好んだのは源頼朝でした。源氏の守護神社である鶴岡八幡宮にたびたび相撲を奉納して上覧(天皇や将軍など身分の高い人が見る)もしていました。

鎌倉時代以降は、相撲が余興という色合いからは離れていき、武家の鍛錬として受け継がれていった。ここから武家相撲が始まっていると言われている。
武家相撲の場合は、余興というよりも、闘争心溢れる男らしいパワーを望み、戦国武将はことのほか相撲を好んだ。屈強な力士達を実践力として武将達が競って召し抱えていったのです。
ことに織田信長は大変相撲を好んだことが知られている。上覧相撲はたびたび行われていたが、大規模なものでは、安土城下に1,500人を集めた上覧相撲があった。勝った強い力士に褒美を与え、召し抱えもしました。戦国の世において、男らしく強い者こそが求められていたのです。

勧進相撲
宮中行事としての相撲節会(すまひのせちえ)は12世紀後半には廃れたが、相撲を生業とした相撲取り達は活躍の場を移して歴史を繋げていきます。
鎌倉時代に入ると、寺社や橋の建立のために寄付を募る勧進(かんじん)と言われる行為が盛んになる。本来は仏教布教の活動行為を言いますが、室町時代には芸能を催して、見物料を取ることを勧進興行と言うようになります。
相撲もこの勧進の一環として、最初は寺社仏閣の寄付金集めのために勧進相撲をしていたが、やはり相撲も、見物料を取る芸能のような立ち位置になっていったのです。戦国時代には、様々な形式での相撲が催されます。戦国武将に召し抱えられる相撲取りもいれば、興行で収入を得る相撲取りとして活躍する人もいました。
江戸時代初期、娯楽として盛んになる。
浪人や力自慢の者の中から、相撲を職業とする人たちが現れ、全国で勧進相撲が行われるようになり、江戸時代中期には定期的に相撲が興行されるようになりました。
やがて谷風、小野川、雷電の3大強豪力士が出現し、将軍上覧相撲も行われ相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至り、相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになったのです。大相撲は、長い歴史の中で次第にルール化され、洗練され、様式化されてスポーツとしての形態を整え、我が国固有の伝統文化とその発展に貢献したのは、第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)でした。
大衆娯楽に興味があった徳川家斉は、相撲も好み、上覧相撲を5回開催しています。現在の大相撲の原型は、徳川家斉の相撲好きから発展を遂げたと言えるです。
なかでも、力のある力士は兵(つわもの=強者)の象徴として、大名に召し抱えられ「武士」の身分と帯刀を許されました。
また、江戸時代前半(1650年頃)には最高位である「横綱」の地位が確立されましたが、彼らに与えられた太刀の中には、当時の名だたる刀匠によって制作され、造もいわゆる「大名ごしらえ」と呼ばれる絢爛華美な物が多かったと言います。この流れは以降も連綿と続き、現代でも大相撲の横綱土俵入りの際に華やかさと、凛とした厳かな緊張感を添えています。
回向院と相撲
回向院(墨田区両国)は、江戸時代に勧進相撲(現代の大相撲の前身)の興行場所として約70年間(1768年〜明治42年)中心的な役割を果たした「大相撲発祥の地」。
江戸時代、相撲興行を行う常設の小屋はなく、寺社の境内において行われていました。興行中の境内にはよしず張りの仮小屋が建てられます。その大きさは2階席、3階席まで設けられた巨大なもので、ここに大勢の観客が訪れ、ひいきの力士たちの取り組みを楽しんだのです。ただし、女性の見物は出来ず、許されるようになったのは明治時代に入ってからのことでした。
勧進相撲の定場所:

寺社の造営・修復費用を募るために行われた「勧進相撲」は、江戸時代初期に各地で開催されていましたが、後に回向院境内で定期的に開催されるようになりました。
「回向院相撲」の時代: 明和5年(1768年)に初めて境内で相撲が興行され、天保4年(1833年)からは定場所となり、明治42年(1909年)に隣接地に旧両国国技館が建立されるまで、相撲の聖地として発展しました。

天皇と天覧相撲
今では「国技」として当たり前のように親しまれている大相撲ですが、実は明治時代、「存続の危機」に立たされていた。
文明開化の陰で…「相撲は野蛮」という逆風
明治維新が起こり、日本が急速に西洋化(文明開化)を進めていたころ、相撲には非常に厳しい目が向けられていました。「欧米に追いつけ追い越せ」の真っ最中だった日本にとって、裸に近い姿で組み合う相撲は、「文明国として恥ずかしい」「野蛮な見世物だ」と批判の対象になってしまったのです。しかし明治17年(1884)3月10日、延遼館での明治天皇の天覧相撲は、直前に横綱に昇進した梅ケ谷藤太郎(初代)と大達による二度水入引分となる大熱戦が評判となって、明治時代に入って沈滞していた相撲人気を大いに高めることとなった。
昭和天皇の相撲好き
昭和天皇の相撲好きは、広く知られていた。観戦だけでなく、若いころは相撲を取るのも好きだった。どんな取り口だったのか。1982(昭和57)年9月7日の会見で、相撲について問われ、こう答えている。
「学習院の初等科時代によく取りました。私は押し専門でした」
ご学友だった永積寅彦氏は、「陛下は『相撲は押し専門』とおっしゃいましたが、いろいろな手で私たちを負かし、決して押しだけじゃありませんでした」
若いころには自ら相撲を取り、戦後に40回、国技館で大相撲観戦を楽しんだ昭和天皇。その相撲好きは、「取るだけ」「見るだけ」にとどまらなかった。年6度の本場所が始まると、侍従や侍医を集めて勝敗予想を楽しんだ。さらに、ミニチュアの「賜杯」を作り、吹上御所で成績最優秀者を表彰。その後は宴会となり、ポケットマネーで、昭和天皇自身が大好物だったうな重を振る舞ったという。
相撲好きなら、ひいき力士がいるものだ。昭和天皇にも「推し」がいたはずなのだが、生涯明かさなかった。ただ、前述の会見で、こんな言葉を残している。
「小さな相撲取りが、いろいろ手を使って大きなものを倒すのはおもしろい」
元関脇金剛の二所ノ関親方は生前、こう語っていた。「あの一番こそ、陛下が楽しみにされていたはず」
麒麟児 — 富士桜戦。両者の対戦は、常に死闘が繰り広げられた。特に、昭和天皇が観覧する「天覧」となった1975年夏場所中日の一番は語りぐさだ。互いに50発以上を繰り出す張り手の応酬に、昭和天皇が貴賓席から身を乗り出して見入った一番として語り継がれている。その後、「天覧相撲」で毎回のように対戦が組まれる、とっておきの取組となった。






