■墨田堤の桜は、享保10年(1725)木母寺境内と隣の御前栽畑に江戸城御庭の桜樹が移されたことが始まりで、徐々に南に延びていき、明治初期には旧水戸藩邸側の枕橋に到達する。
■しかし、明治時代になると、変化が見られます。まず、江戸時代は隅田堤と呼ばれることが一般的でしたが、明治以降は墨堤と呼ばれることが多くなってきました。また、明治20年(1887)建碑の「墨堤植桜の碑」は江戸幕府からの桜樹維持費が維新後なくなり、樹勢が衰えてきたことへの対応の結果、建てられたものです。

■さらに大きな変化は、向島を取り巻く環境の変化です。
■隅田川神社の神主矢掛弓雄は「隅田川叢誌」(明治25年)の中で『明治時代の初めに情景豊かな隅田川八景を選んだ時から、大堤(墨堤)の内外の景観は少しずつ変わってしまった。鐘ヶ淵紡績工場が出来て、器械の音は昼夜絶え間なく、夜の雨の音が聞こえていたのが昔の夢のようだ。人家が出来て田も減ってしまい、水神の森付近に残るだけである。秋の落雁の声も聞こえなくなってしまった』
■向島の寺社仏閣と周辺に広がる田畑の借景は、近代化によって大きく変化してきたのです。

北側にあった水戸藩下屋敷前の掘割に架かる小橋、新小梅橋と合わせて「枕橋」とも呼ばれた。

木母寺(天台宗 梅柳山 木母寺)
木母寺 公式ホームページ (天台宗 梅柳山 隅田川厄除大師)
墨堤の桜
■墨堤が築かれたのは大変古く、室町時代の後期1500年代中頃で、隅田(現在の堤通・墨田)、寺島(東向島・堤通)、須崎(向島)、小梅(向島)の四か村にわたる2100余間(約3㎞)が築造されました。当時は、墨堤のうち寺島(現在の堤通一丁目)以北を「隅田堤」、須崎(同向島5丁目)以南を「牛島堤」と区別して呼んでいたそうです 。台東区の日本堤も同じ頃、共に下流域の水害対策として造られました。
■墨堤の桜は、シーズンには花見客で大変賑わいます。この桜並木の歴史は江戸時代に遡ります。徳川幕府四代将軍家綱が、1650年代の頃、常陸の国・桜川村(現在の茨城県稲敷市桜川)から桜の苗木を取寄せ、将軍の「隅田川御殿」(元鐘ヶ淵紡績工場)近くの旧木母寺辺りに植えたのが始まりとされています。

■享保2年(1717)、八代将軍吉宗は木母寺から南の墨堤に桜100本を、更に9年後、桜・柳・桃を各150本植えます。この目的の一つは、庶民のための行楽地造りです。同じ目的で飛鳥山公園や八ツ山橋も造りました。二つ目は、大勢の花見客の往来で、墨堤の地固めを図ることでした。
以来、安政元年(1854)までに地域の篤志家の協力も得て、700本の桜が三囲神社まで植えられました。
■この間、大洪水での流失等がありましたが、多くの有志の協力があり、補植し江戸の「桜の名所」としての地位を確立します。
■言問団子向い側の公園内にある「墨堤植桜の碑」。この碑の題字(篆額/てんがく)は郷土の偉人・榎本武揚の筆のよるものです。
■明治時代の牛島神社は桜橋近くの長命寺裏で、名物「桜餅」の店が隣接していました。「牛嶋神社旧址」の碑が弘福寺裏の土手下に現存しています。





