忠臣蔵のモデルとなった赤穂浪士の討ち入りは、旧暦の元禄15年12月14日(新暦1703年1月30日)未明に行われた。
これを記念して、吉良邸跡である墨田区の本所松坂町公園では、12月14日には義士祭が催されます。
本所松坂町公園
東京都墨田区のJR総武線両国駅から南東へ徒歩7分または都営大江戸線両国駅から南西へ徒歩10分ほどの地に位置する区立公園。
赤穂事件で討ち取られた吉良上野介義央は当時、この一帯に屋敷を構えていた。昭和9年、その記憶を伝えるため地元住民が吉良邸跡の一部を購入して東京市に寄付し、翌年に本所松坂町公園として開園。昭和25年には墨田区へ移管された。
討ち入り当時の吉良邸は、東西733間(134m)、南北は34間(63m)、2550坪(8400平方)という広大なものでした。
現在の公園の面積は、97.56平方なので、86分の1の規模ということに。
往時の吉良邸を偲ぶなまこ壁に囲まれ、吉良上野介の首を洗ったとされる「みしるし洗いの井戸」や供養碑が残されています。
当時ここは本所松坂町と呼ばれていたので、現在、本所松坂町公園という名称になっています。
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)
1641(寛永18)年、高家旗本(こうけはたもと)・吉良義冬と大老・酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の 吉良邸で生誕。
三河国・吉良家(4200石)、駿河国・今川家(1000石)は、徳川家康が高家旗本として幕臣に列した名門中の名門です。
高家は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。
1683(天和3)年には、3人しかいない高家のトップである、高家肝煎となっています。
有職故実や礼儀作法に特に精通していたことが選ばれた理由です。
1686(貞享3)年には領地の三河国幡豆郡に黄金堤(こがねづつみ=この堤で吉良8000石が水害から守られました)を築いているなど、西尾市吉良町では名君として知られています。
墓所は、西尾市吉良町の華蔵寺。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。