【両小】寺島ナス、元気に育ち、実をつけています。

いよいよ本日から夏休みとなりました。ただ、熱中症指数は基準値を超え、初日から水泳は中止となりました。

さて、いただいた寺島茄子ですが、昨年度は残念ながら、いただいた数週間後には暑さのためか枯れてしまいましたが、今年度は写真のように元気に育ち、実をつけています。

本日3つの茄子を収穫しましたが、まだまだこれから大きくなるであろう実がついています。皆さまにおかれましては、暑さ厳しい中、体調を崩されないように十分にお気を付けください。

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墨田区立両国小学校
副校長 手山 晃洋

『復活!寺島なす』

墨田区東向島はかつて地名を寺島といい、江戸の人々に新鮮な野菜を供給する近郊農村でした。元禄郷帳(1688年~1704年)によると、この地域一帯は、隅田川上流から運ばれてくる肥沃な土壌でナス作りに適し、ここで作られたナスは、その名も「寺島なす」と呼ばれていました。しかし、関東大震災により、肥沃な農地は被災者の住宅用地に変わってしまい、以後、地元名産の「寺島なす」は、幻のナスとなってしまいました。

寺島なす復活プロジェクトの歩み
保存されていた種!

数年前に独立行政法人農業生物資源研究所のジーンバンクに保存されていることがわかりました。(※ ジーンバンク 野生および栽培植物の種子や、野生および飼育動物の精子、微生物などを収集し保存する機関。遺伝子銀行。)

地元小学校での復活!

江戸東京・伝統野菜研究会の大竹道茂氏により地元の白鬚神社に説明板が設置され、地域に知られるようになった「寺島なす」は、創立130周年を迎える第一寺島小学校(一寺小)の創立記念事業として、郷土愛に燃える卒業生の皆さんの熱い思いとともに、復活の話は地元に広がっていきました。そして、寺島ナスの生産者である三鷹市の星野氏の指導協力も得て、校内での栽培がはじまりました。校舎裏の子ども広場では、1年生と地域のお年寄りが一緒に水やりをするなど微笑ましい交流も生まれ、収穫したナスは給食でも食べられました。学校長は「子供たちによるナスの栽培の復活は、郷土の歴史を学び、学年に応じた観察や栽培体験ができる初めての試みです。」と話しています。

寺島なすの歴史 将軍も食した茄子!

幕府は、徳川四代将軍家綱の時代に起こった明暦の大火(振袖火事1657年)を契機に江戸の都市改造を実行していました。その一環として、江戸東部地区の開発が行われ、浅草の北東、隅田川の東岸の木母寺に隣接するところに御前栽畑(将軍が食べる野菜を栽培する畑)を設けました。これは歌川広重の浮世絵、江戸名所百景「木母寺内川御前栽畑」にも周辺の景色が描かれています。このあたりは上流から運ばれてきた肥沃な土壌により、スイカやウリなどの野菜も栽培されていました。

賞美された茄子!

書物では、享保20年(1735年)の「続江戸砂子温故名跡史(ぞくえどすなごおんこめいせきし)」に、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」「夏秋の中の嘉蔬(かそ:野菜の意)」として、「寺島なす」は江戸近郊の名産であることが記されていました。さらに文政11年(1828年)の「新編武蔵風土記稿」には、ナスとして「形は小なれども早生なすと呼び賞美す」と記載されています。

江戸の銘品 寺島茄子!

その後隣接する寺島地域にも栽培が広がり、江戸庶民の野菜の供給地となっていきました。収穫したナスは、船を使って千住や、本所四ッ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝 えるに値するナスの銘品があったのです。

隅田公園で「寺島なす祭り」
おいしさ競う「なす1」グランプリも

写真は山本区長を囲んで(てらたま協議会のメンバーと山本亨区長)
墨田生まれの江戸野菜を楽しむイベント「第3回 寺島なす祭り」が7月21日、隅田公園(墨田区向島1)で行われた。主催はNPO法人「寺島・玉ノ井まちづくり協議会(てらたま協議会)」。 「寺島なす」普及の一環として行う同イベント。当日は「寺島なす」を使ったメニューを食べ比べして優勝を争う「N1(なす1)グランプリ」のほか、「寺島茄子之介音頭で盆踊り」「新鮮野菜のマルシェ」「青果リレーエキシビション」など、幅広い世代が楽しめるプログラムを用意した。

現在、墨田区内では「たもんじ(多聞寺)交流農園」で栽培しており、勉強会や苗植えや収穫イベントを開いている。