多くの関係者が見えられました。
12月14日は本所松坂町吉良邸に赤穂浪士討入の日。皆さんご存知ですね。牛嶋神社 宮司の祝詞奏上のあと、山本区長はじめ多数来賓が参拝されました。
義士祭のはじまり
吉良上野介義央(よしひさ)が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが元禄14年 (1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703)2月4日ですか ら、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。本所松坂町公園は昭和9年に地 元両国三丁目町会有志が発起人となって邸内の「吉良のみしるし洗いの井 戸」を中心に土地を購入、同年3月の東京都に寄付された。
現在、屋敷跡の一部が本所松坂町公園として整備され、みしるし洗いの井戸、 吉良上野介義央公像などから、往時をしのぶことができる。
地元両国三丁目町会有志が、敵役としてはあるが討ち入りで亡くなった吉良上野介 並びその家臣を弔うため、昭和25年から義士祭を12月14日に始めた。今回で70回を数 える。
所在地:東京都墨田区両国3-13-9 (JR総武線両国駅より徒歩7分)
忠臣蔵の概略
元禄14年(1701)3月14日、江戸城に朝廷からの勅使を迎えた際、勅使御馳走役 (饗応役)を務める赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)に斬り つけられて負傷した。義央の横柄な態度に長矩が恨みを抱いたとする説などがある が、原因は不明。長矩は即日切腹を命じられ、赤穂浅野家は取り潰された。
事件の後、義央は自ら職を辞し、同年12月に家督を養子・吉良義周(よしちか)に 譲って隠居。翌年12月15日未明、浅野家の旧臣(赤穂浪士)に本所の屋敷(現・両国 3丁目)で襲われ、落命した。
刃傷事件が起きた時点では、吉良家の屋敷は江戸城呉服橋門内(現・千代田区丸の 内)にあったが、元禄14年(1701)年9月3日に幕府から新たな屋敷を請け取り、隅田 川を越えた本所に移転した。屋敷は東西約73間(約134m)、南北約34間(約63m)、 約8,400屬旅さがあったという。
同15年(1702)12月14日、邸内で年納めの茶会を催した翌日の未明に赤穂浪士によ る襲撃を受けた。激闘の末払暁までに、義央が首を討たれたほか家臣の死者は20人に のぼったという。
善政の吉良上野介義央
吉良家は、清和天皇の後裔で、先祖は足利佐馬頭義氏。江戸城における一切の典礼 を司る高家の地位を得たのは、祖父義弥の時です。寛永18年生まれで、三郎の幼名を 名のった義央は、13歳で将軍家綱に謁見した。のちに、京への使者を任され、立派に その大任を果たしたことから、以後、有職故実※1)の家柄として重用される ようになった。賓客を応待することにかけては、義央はまさに天才だったようだ。
忠臣蔵では悪役に仕立てられた上野介でしたが、領地の三河の吉良(愛知県西尾市 吉良町)では評判が高く、街の人は今でも「吉良様」と呼んで慕っている善政の殿様 でした。新田の開墾や塩業の発展に尽力するなど、多くの事業で成功を収め、特に一 昼夜で築いたと言われる長さ182メートルの堤があり、この治水工事で豊作が保証さ れたことから、今でも「黄金堤」と呼ばれている。領地に滞在している間は、赤い馬 に乗って、領内を巡回するのが日課としており、「吉良の赤馬」は名君吉良様と共に 今でもその名を残している。
※1)有職故実とは: 朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事・軍陣など の先例・典故。また、それらを研究する学問。平安中期以後、公家や武家の間で重ん じられた。